4人の子育てをし、現在は夫と末娘とともに暮らす。
*** 私、小林けい子のこと ***
家事手伝いがあたり前の子ども時代
安達ケ原の鬼婆伝説で有名な安達ケ原から山奥に20分。福島県東和町(現在は二本松市)で、1954年、3男3女の5番目に生まれました。
当時はどこも貧しく、私は家業のこんにゃく作りの手伝いや畑仕事、各戸訪問の納豆売り、新聞配達などがあたり前の中で育ったので、体を動かすのは苦とも思いませんでした。
当時はどこも貧しく、私は家業のこんにゃく作りの手伝いや畑仕事、各戸訪問の納豆売り、新聞配達などがあたり前の中で育ったので、体を動かすのは苦とも思いませんでした。
先生の読み聞かせで本好きに
小学校の先生の読み聞かせが楽しくて本が好きになり、中学生の時は、自宅にあった祖父の本をこっそり読んだり、友達と読んだ冊数を競い合いました。
父は長く糖尿病を患っていたため、兄たちのおかげで高校も出してもらいました。父が高3の時に亡くなったため、卒業後は町田にいる兄を頼って上京しました。
父は長く糖尿病を患っていたため、兄たちのおかげで高校も出してもらいました。父が高3の時に亡くなったため、卒業後は町田にいる兄を頼って上京しました。
「先生になりたい」と教員免許を取得
学生自治会の活動を通し、日本共産党に入党
「学校の先生になりたい」という夢を実現するため、大学入学金を働いて貯め、相模女子大学に入学。中学と高校の教員免許を取得しました。大学3年生の時に自治会委員長として学習環境の改善を要求したり、学生食堂設置に奮闘しました。
その頃に日本共産党との出会いがありました。日本共産党は、戦争に命がけで反対し、弱く、貧しいものの味方であることを知り、何の違和感もなく入党しました。
その頃に日本共産党との出会いがありました。日本共産党は、戦争に命がけで反対し、弱く、貧しいものの味方であることを知り、何の違和感もなく入党しました。
夫婦で子育て
夫とは、民主青年同盟の活動で知り合い結婚。困ったときの一番の味方です。産休の代替教員や新日本婦人の会の役員をしながら4人の子育てをしてきました。今は3人が自立し、1人は大学生になっています。
子どもたちが中学生の頃、お弁当作りに悩み、子どもたちが安心して食べられる野菜をと始めた野菜づくりは、今も続けています。
愛川町議として